3人の年配の話だ。
一人は中部ジャワの街ブミアユの山間、
田んぼのあぜをたくましく裸足で歩く。
その後ろには数え切れないほどのアヒルがついて回る。
グエッグエと鳴きお尻を目一杯振って歩く姿がかわいい。
彼はアヒル飼い。
先端に紅白の国旗がついた細い竹の棒を握って、先導する。
息子の家に泊まった時、90歳近いと知り直接聞いてみた。
「日本はどうだった?」日本人は友だ、
彼はそう答えているようだった。
88歳のその女性は友人の祖母。
ジャワ西部のバンドゥンという街に暮らす。
孫はインドネシア語、英語、中国語を話す。
家族に混じって食事をしていたとき、
ちっとも衰えない食欲の話で笑った。
外食の注文も先陣を切る。食後、同じ質問を投げかけた。
「怖かった。」わかる単語を手繰り寄せて、その感情を聞き取った。
小さい頃、日本兵に襲われないように髪を短く切り、男の子の格好をしていたと語った。
ジャワ王宮の街ソロを歩いていた時、
脇道の奥に小さな塔を見つけた。
道端でボトルに入ったガソリンを売るおじいさんが近寄ってきた。
しわくちゃだけど力強い、濃い茶色の肌。黄色いTシャツ。
ジャワ語で目の前のその塔について説明してくれるが、
インドネシア語よりもっとわからない。
別れ際に日本人だとわかった途端、感極まった表情とハグ。
なんでハグなのか、彼の背中に手を回しながら考えていた。
「日本人は友だ」と彼も言っていたようだった。
質問するたび、この対話になるたびに、ヒリヒリしてた。
恐れと同時に、とてつもなく重要な場面に出くわしている、
そんな感覚。
待つ間の沈黙。
耳を傾ける時もその後も戸惑っていた。今もだ。
この熱帯の島の日常に生きる、人間のあるべき姿を見つめてる。
その視点から何かをつくろうとしている。
そうしている自分を、ぐっと遠ざけて眺めてみる、
するとどうだろう?
日本からやってきた何者かが、この国に対して何かをもたらしたり、
逆にこの国から何かを得ようとしている。
「当時」をなぞらえてみえるのではないか?
と自意識過剰になるときがある。
つまり、私がアーティストとしてきたことは、
日本による植民地時代の構造と重なってしまいうるのではないか、と。
誰も気にしないかもしれない自身の頭の片隅にあったこのジレンマと、私はようやく向き合い始めることにした。
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バリの空に「得体の知れない何か」が飛んでいた。
みたことのない大きさの帯状のものが上空を漂っている。
それは龍を表す凧だった。
大きいもので全長150メートルもあるらしい。
ジョグジャカルタに、隼が眠っている。
日本の戦闘機「キ-43」は、別名「Hayabusa」と呼ばれている。
この飛行機は、日本軍がジャワ侵攻で用い、
3年間の植民地時代を経て、
インドネシアの独立戦争の際に利用され、塗り替えられた。
世界に現存する12機のうちの一機が、
私の住む街の航空博物館にある。
バリの龍の凧の骨組み部分と、隼の機体の実物大は、
おおよそ同じおおきさだ。
私はこの「龍」と「隼」をひとつに重ねてみた。
飛ばした景色を描いてみる。
二つの国と、歴史の間で、たよりなく舞い上がる、
新たな「得体の知れない何か」が生まれた気がした。
インドネシアでつくり、輸送し、日本の空で飛ばす。
贈ることはできるのか、だれかに届くのか。
軽い素材で壊れやすく脆いが、積まれた歴史と記憶は重い。
どちらをとっても、取り扱い注意(Fragile!)に違いない。
1942年に日本からこの島に向けて送られた、あの隼は何を見てきた?
戦闘だけではない。たった三年と言えないくらいに占領期の影響は、
今もジャワの日常に残る。
当時の日本軍がジャワの人々に求めたことによる生活の変容と、
トラウマの大きさに比べれば、
このプロジェクトで日本の飛行機がインドネシアの凧になるなんて小さなことだ。
《フラジャイル・ギフト》は、行き場を失った隼を龍に重ね、象徴的に返却する。
これは、80年越しの「贈り物」だ。
2022年6月15日
北澤潤